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連載小説「相模川恋唄」31-35

連載小説「相模川恋唄」31-35

水曜日なのにヒロカズが隣にいる。そして家へと向かっている。
和子はなんとなく不思議で、でも、安心していた。
会いたかったのは、私のほうだったのかもしれない。

「ヒロ君」
和子はヒロカズの手をきゅっと強く握った。そして続けた。
「シマアジ、塩焼きでいい?」
「うん。」
ヒロカズも手を握り返す。
そして、突然立ち止まり、和子を抱きしめた。
普段より心なしか力強いヒロカズの腕が和子の体を包み込む。
「ヒロ君、どうしたの?」
「わかんない。」
和子は戸惑いながらもヒロカズの背中に手を回し、二人はしばらく抱き合っていた。
ヒロカズ、何かあったのかな。
家の外でヒロカズがこんなことをするなんて、もちろん初めてのことだった。

それから家まで、二人の口数は少なく、それでもしっかり手をつないで歩いた。
途中から二人は手を握り直し、指と指がしっかりと絡みあっていた。
和子は歩きながら少しだけ長谷川の事を思い出していた。
あの大きくて優しい手。触れただけで心臓が縮み上がるほどドキドキしてしまって、包み込まれてしまう。忘れられない長谷川の手。
でも、こうしてつないでいるヒロカズの手も優しく心地よい。和子の手にすっと馴染んで、まるで一緒の手になってしまったような感じになる。そう、ずっと前から繋いでいたのはヒロカズの手だったのだ。

ヒロカズは家に着くなり、また和子をぎゅっと抱きしめた。
「かずちゃん」
「うん」
「ありがとう。」
「えっ」
和子はヒロカズを見上げた。
ありがとう?どうしてだろう。
ヒロカズは和子の目をじっと見つめて言った。
「ずっと会いたくて。」
和子の心臓が大きく脈を打つ。
ずっとって、まだ三日しか経ってないのに。土曜日には会えるのに。それでも会いたいって言ってくれた。
嬉しい。

和子は黙って目を閉じた。
ヒロカズのキスを待つ。
いつものように頬にくるかと思ったら唇にヒロカズのそれが吸い付いてきた。柔らかいキスから始まる毎回の儀式とは違い、今夜のキスは最初から激しかった。ヒロカズの舌が和子の歯の間から侵入してくる。いつもより何かを求めているかのように。
和子もそれに応えた。
いつもと違う事への戸惑いはなく、ただその激しさに飲み込まれていた。
長い長いキスをしながら、和子もヒロカズも自然とお互いの体に触れ始めた。頭、胸、腰、撫でて掴んで、抱き締めて。そのまま二人のセックスが始まっていった。
ベッドに倒れ込んだ時、突然和子は気になって声を出した。
「あ、シマアジ、」
「保冷剤入ってるから大丈夫。」
ヒロカズはそういって笑った。
激しいキスの間に混じり合ったお互いの唾液でその口元が光っているのが見えた。
和子はそれを見てたまらなくなり、ヒロカズの唇に吸い付いていった。
どうしてだろう、ヒロカズを今日の自分は激しく求めている。
互いの服を脱がせ始めたそのとき、ヒロカズが言った。
「かずちゃん」
「うん」
「ずっと、したかったです。」
「もう、してるじゃん」
ヒロカズは和子の頭をそっと撫で、また長いキスをした。
二人はそのまま、先週の土曜日のように濃厚な激しいセックスが始まった。
そして風呂に入り、そこでもキスを繰り返しお互いの体に触れ、二度目のセックスが始まっていた。夕飯を食べるのも忘れていた。
二人は激しくお互いを求めていた。土曜日まで待てない、それはきっと、同じ気持ちだった。
二度目のセックスの時、いつもとは違い、和子が上になりヒロカズが達した。
終えたあとの長いキスで、気持ちよさに混じって和子は切なさがこみ上げてきた。
なぜか、泣きそうだった。

二人はお互いの体を拭いて横になる。
身体から火照りが抜けていかず、汗がなかなか止まらなかった。
ヒロカズはうしろから和子を抱き締めた。いつもの姿勢だった。
しっとり濡れた汗が心地よい。
「ヒロ君」
「うん」
「シマアジ、どうしようか」
「うん、」
少しづつ二人の呼吸も落ち着いてきた。
「明日食べに来れる?」
和子は言った。
「うん。明日も来る。」
ヒロカズは優しくそう言うと、後ろから和子の耳にそっとキスをした。
和子はたまらず振り返った。
「ヒロ君」
ヒロカズの優しい笑顔がそこにあった。
「かずちゃん、好き。」
ヒロカズはそう言うと、和子の額にそっとキスをした。
好き。
その言葉が和子の心を溶かしていった。
好き。
ヒロカズはキスを続けた。頬に、唇に、首筋に、肩に、胸に、脇腹に。その口づけの音が暗い部屋に響いていた。太ももに、膝に、足に、ヒロカズは優しく全身にキスを繰り返す。
そのひとつひとつに「好き」が篭っていた。
ああ、大切にされている。
ヒロカズに想われている。
和子は全身でキスを浴びながら感じていた。どうしてこんなに近くにいたのに今まで気づかなかったんだろう。
最後、ヒロカズは和子の手を取り、手のひらに、手の甲に、指の一本一本にキスをした。
気がついたら和子は泣いていた。
ヒロカズの優しさが心地よく、その思いに感動していた。
「かずちゃん」
ヒロカズはそっと和子の頭を撫でた。和子は目を閉じる。
今度は顔全体にヒロカズのキスが降ってきた。右に、左に、右に、左に、額に。流れる和子の涙をヒロカズの唇が受け止める。
「泣かないで。」
ヒロカズの唇が和子の唇にかさなる。その優しい感触に和子の涙が更に溢れ出た。
ヒロカズが、愛おしい。
もう我慢できなかった。
和子はヒロカズの唇に吸い付き、舌を口の中に侵入させていった。ヒロカズもそれに呼応する。
長い長いキスだった。そして激しかった。二人の舌は絡み合い溶け合い、受け止めきれない唾液が和子の涙と混ざり、口の端から流れ落ちていた。それでも二人はやめずに続けた。
ひとしきりそれが続いて、ようやく二人の唇がゆっくりと離れた。
和子はヒロカズの目を見てはっとした。
ヒロカズも泣いていた。
「ヒロ君。」
「かずちゃん、かずちゃん」
ヒロカズが子供のようにくっついて、和子の胸に顔を埋めた。
和子はヒロカズの頭を撫で、抱きしめた。
「かずちゃん、好き。好き。」
ヒロカズは、繰り返した。
どうしてこんなに想われていたのに気づかなかったんだろう。こんなに近くにいたのに。
ヒロカズが、好きだ。
「ヒロ君、好きだよ。」
和子は言った。そして、繰り返す。
「好き。好き。ヒロ君、好き。」
ヒロカズの頭を撫でながら和子は繰り返した。ヒロカズの涙が和子の胸を濡らしていた。
それはとても温かかった。
「好き。」
「好き。」
二人はそのまま涙を流しながら、お互い、好きと言い続けた。和子はヒロカズを胸にしっかりと抱いて、ヒロカズは和子の胸に顔を埋めて。子供のようにヒロカズが小さく感じられ、温かく愛おしい。和子はヒロカズの頭にそっとキスをした。
「ヒロ君、好き、大好き。」
この愛おしい存在をずっと抱いていたかった。
しばらく頭を撫でていると、ヒロカズの嗚咽がいつしか寝息に変わっていった。
気づけば胸に流れ落ちていた涙も乾きつつあった。
和子も泣き疲れ、ヒロカズの寝息を聞きながらすっと眠りに入っていった。

あっという間に朝が来た。
こんなにぐっすりと眠ったのは久しぶりかもしれない。ここしばらく、長谷川の事を考えては寝つきが悪く、嫌な夢にうなされたりしていた。
起きたらヒロカズは既にいなかった。
テーブルの上に書き置きがあった。ヒロカズがそういう事をするのは珍しい。

『かずちゃん
シマアジは照り焼きでもいいです。』

普段殆ど見る事はないヒロカズの字は、かなり整っていた。
和子は二度読み返して微笑んだ。まったくもう、何で敬語なんだろう。

今日もヒロカズが来る。せっかくのシマアジもあるし、美味しい料理を作ってあげよう。
割り切った関係だと思い込んでいたが、お互いいつの間にか、なくてはならない、愛おしい存在になっていた。
ヒロカズのいない生活なんて考えられない。
きっと、気の迷いだったんだ、長谷川さんのことは。
自分にはヒロカズがいるんだから。

その日、出勤早々の朝のミーティング後、和子は長谷川に呼び止められた。
「和子さん、15時の赤坂の会議、行けます?」
「はい、大丈夫です。」
出張こそない仕事であったが、隔月くらいの頻度で子会社に赴いて会議を行うことがあり、今日はその日だった。
大抵、長谷川と和子が二人で赴く流れになっていて、それもいつも通りの会話、のはずだった。
「じゃ、14時半に下のロビーで。」
「はい。」
その瞬間、和子の喉の奥がドクンと脈打った。途端に胸がソワソワし始める。

あれ、何でだろう。
いつも通りの赤坂会議なのに。いつも通りの14時半にロビーで。
何で動揺してるんだろう。

和子は戸惑ったが理由はわかっていた。
長谷川さんと、二人で。二人っきりで。
途端に長谷川のメールの言葉が頭をよぎる。

「また、手をつないでもいいですか?」

まさか、まさかね。業務中の移動でそんなことあるわけがない。
しかし心のどこかでそれを期待してしまっている自分がそこにいるのを感じていた。
何やってるんだ、私。
長谷川さんを意識してしまうのは、単なる、気の迷い。
今夜はヒロカズが待ってるんだから。
頭の中でしっくりこない葛藤が繰り広げられそうだったが、それでも午前中はそれなりに多忙であり、悩む暇もなかった。

昼休み、いつものようにカップヌードルにお湯を入れて自席に戻ると、長谷川からメールが来た。

「和子さん
久しぶりですね、赤坂の会議。よろしくお願いします。
また鋭い発言で助けてくださいね(^^)」

気の迷い、のはずなのに、長谷川のメールを見ると勝手に胸が高鳴り出す。
何やってるんだ、まったく。

「長谷川さん
そうですね、今年まだ二回目のはずです。」

「和子さん
17時終了予定なので、多少巻いても直帰して頂いてよいですよ。」

「長谷川さん
よろしいんですか?ありがとうございます。
赤坂だと千代田線直通!で帰れるので助かります。」

よかった。早く帰れそうだ。
和子は嬉しかった。
今日はヒロカズが来る。時間があるからスーパーでいろいろ買って、凝った料理も作れる。
ヒロカズの喜ぶ顔が早く見たい。

「和子さん
そういえば、直通ですね。
では、今日は、一緒に帰りましょうか?」

和子は、息を飲んだ。
こみ上げる感情は嬉しさだった。長谷川さんと一緒に帰れるんだ。

だめだ、喜んではダメだ。
なんで喜んでるんだろう。
ダメだ、ダメだよ。
和子は必死に自分にダメだと言い続けた。
そうだ、もしかしたら長谷川さんは冗談で言ってるのかもしれない。

「長谷川さん
長谷川さんは直帰できるんですか?」

「和子さん
いやー、難しいですね(笑)
多分このままだと仕事溜まってるので直帰できません^^;
それにしても、同じ路線なのに帰りが一緒になったことないのが不思議ですね。」

和子は少しほっとした。
と、同時に何故か少し残念だった。どうしていらない期待をしてしまっているんだろう。
何をやってるんだ、一体。

「長谷川さん
仕事回せるなら自分がやりますので指示ください!
最近長谷川さん、残業多いみたいですけど普通に帰れてるんですか?」

「和子さん
さすがです!頼もしいですね。
ありがとうございます。それでは、どんどんお願いしちゃいますよ。
お察しの通り最近残業多いです、さすがに終電までとはいきませんが、日付変わりそうな時間に帰宅とか続いてますね。」

「長谷川さん
一度チームでタスク管理見直ししましょう。手伝います。
奥さんの為にも早く帰れるといいですね!」

奥さんの為にも。
書きながら和子は少なからず動揺していた。どうしてだろう。

「和子さん
遅い日は待たないで寝てしまってよいと言ってるので、うちのは、帰るといつも寝てます(笑)」

うちのが。
長谷川のメールが和子の動揺に拍車をかける。
うちのが。単語ひとつに心が揺れている。
ダメだ。やっぱり、ダメなんだ。
気の迷いなんかじゃないんだ、まだ意識しまくってしまっている。

「長谷川さん
いい旦那さんですねー、世の中には起きて待ってないと怒る男性もいるじゃないですか?」

大袈裟になってもいい、意識していないように振舞おう。

「和子さん
いやいや、寝てくれてるほうがこっちの気が楽なのでお願いしてるだけです。
和子さんだったらどうします?待ちます?寝ます?」

「長谷川さん
寝ちゃいます(笑)
起きてると相手にプレッシャー与えそうで、怖いです。」

「和子さん
さすが!そう言ってくれると思いました。
うちのは、本当は待っていたいタイプみたいです。まあ、寝てますけど。」

当たり前のような夫婦の約束についた。
そんな話題、長谷川には奥さんがいるから当然なのに、どうして動揺しているんだろう。
奥さんの存在が少しでもチラつくと、胸がちくりと痛くなる。
やっぱり、好きなのかな、長谷川さんのこと。
自分で、自分が分からない。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。

つづく
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テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

連載小説「相模川恋唄」26−30

相模川恋唄 26−30

「こんばんは。」

ヒロカズは笑顔だった。
ああ、やっぱりヒロカズの笑顔は安心するな。
昼からじわじわと悲しかった和子の心がすっと楽になり、負けじと笑顔になった。
「リクエスト通り、明太子料理たくさん作ったよ。」
「ほんと?やったー」
ヒロカズはいつもそうしているように、和子をそっと抱きしめて頭を撫でた。
「かずちゃん。」
「何?」
和子もヒロカズの体に手を回し、二人はしっかりと抱き合った。
「なんか辛いことあった?」
「え、なんで?」
「なんか悲しそうな顔してた。」
和子の胸がきゅっと痛くなった。ヒロカズには伝わっちゃったのかな。
「なんもないよ。大丈夫。」
和子はヒロカズを見上げた。
「よかった。」
ヒロカズの顔が近づいてくる。いつものキスだ。和子は目を閉じた。ヒロカズの柔らかい唇が、右頬に、左頬に、最後は唇に。
いつものように丁寧で優しかった。

「ねえ、ヒロ君」
「何?」
「もう一度してください。」
和子が言うとヒロカズは吹き出した。
「なんで敬語なの」
「わかんない。」
和子はそう言うと、再び目を閉じた。
ヒロカズの唇が、和子のそれに重なる。ヒロカズは小刻みにキスを繰り返し、だんだん長く、だんだん吸い付き、和子もそれに応じる。二人の舌が徐々に絡み合い、優しく溶け合う。
いつもの儀式なのに、今日の和子にとってはどこか特別なものに思えた。

どうしてヒロカズじゃないんだろう。こんなに近くにいるのに。
どうして、長谷川さんが好きなんだろう。

長い長いキスの間、少しだけそんなことが頭に浮かんだ。

二人は食事をしながら古い映画のDVDを見て酒を飲み、深夜まで話し込んでから一緒に風呂に入り、そしていつものようにセックスをした。
どうしてか今夜は二人の波長が合っており、浴槽の中からその行為は始まった。そしてあまり休むことなく三回のセックスが続いた。
どこかで和子はそれを求めていた。没頭している間は、昼の出来事を、長谷川への思いを忘れていられる。
ヒロカズもどこかでその和子の気持ちを汲み取っていたのだろうか。いつもより丁寧な部分はより丁寧に、少しだけ乱暴にして欲しい部分は乱暴にしており、、和子の臨んだ通りのセックスだった。お互い言葉に出さなくても気持ちと行為と快感とが噛み合っていた。

明け方、ヒロカズは眠る時、後ろから和子をそっと抱きしめてくれた。それは、和子の一番安心する姿勢だった。
さすがに三回続いた疲れからか、すぐにヒロカズの寝息が聞こえてきた。

和子は、眠れなかった。ヒロカズが眠り、ひとり、思い悩んでいた。
どうして、ヒロカズじゃないんだろう。
どうして長谷川さんを好きになってしまったんだろう。
決して叶うことのない片思い。好きになってはいけない。思いを押し殺して生きていかなくてはいけない。
相模川の向こうに、長谷川さんの家庭がある。
越えることなんて、できやしない。
あんなに大きくて優しい手をしているのに。
長谷川のそれが和子のものになることは、永遠にないのだ。
私は誰のものにもなれない。
和子の目から涙が溢れてきた。
悲しかった。悲しくて淋しかった。

和子は声を出さず静かに泣いていた。なかなか涙が止まらない。
と、その時、突然ヒロカズの手が和子の頭を撫で始めた。

ヒロカズ、起きちゃったかな。寝てるふりしなきゃ。
そんなことを思ったが涙は止まらない。何も言うことはできなかった。
もしかして泣いてることに気づいてるんだろうか。
勘のいいヒロカズだから、きっと分かってるんだろうな。

ヒロカズはよく和子の頭を撫でてくれる。いつもそのタッチは絶妙だ。いつも優しく、甘く、心地よい。
和子はいつもそれで満ち足りた気持ちになる。
そして今、ヒロカズの手は、一生懸命和子の涙を止めようと頭を撫でてくれているように思えた。
そのまま10分以上、和子の静かな嗚咽は続き、ずっとヒロカズが頭を撫でていた。
ひとしきり泣き終えた頃、ヒロカズの手が止まった。

和子が何か言おうとしたその時、先に口を開いたのはヒロカズだった。

「好き、だよ。」

「えっ?」
思わず和子は声を出した。
好きだよ、確かにそう聞こえた。
しかしヒロカズは何も答えず、黙ったまま和子の体をぎゅっと抱きしめた。ゆっくり、強く、でも、優しく。
ずっとそのまま、二人は無言で密着していた。背中にくっついたヒロカズの温かい胸の感触がいつも通りの確かさで心地よかった。
突然の、好きだよ。
こんなに近くにいても、ヒロカズは今までそんな事を一度も言わなかった。冗談でも聞いた事はない。
だから、和子は、お互い恋愛感情なんてない関係だと思っていた。
好きだよ。
その言葉、たしかに聞いた。

長い沈黙の後、和子は呼びかけた。
「ヒロ君。」
返事はなく、寝息が聞こえてきた。いつものヒロカズのリズミカルな寝息だ。
ヒロカズ、寝ちゃったのか。
もう確かめようがない。
好きと言われたのに、戸惑ってしまうなんて。どうしてなんだろう。
自分はヒロカズのことをどう思っているんだろう。
好きか嫌いかと言われれば好きで、だからずっと一緒にいるのだけれど。
でも、多分この好きという気持ちは恋愛感情ではないのだ。
ヒロカズの言った「好き」は、どんな意味の「好き」なんだろう。
どれだけ近くにいても、何度も体を重ねても、分からないことは分からない。
でも思えば、いつもヒロカズは和子を優しく満たしてくれていた。いびつな関係のはずなのに二年以上も続いているのは、その心地よさがあったからだ。

ヒロカズが起きたら、確かめてみようかな。
でもそんな事をしたら、この関係は終わってしまうのではないか。

そう、今まで通りがいい。

「和子さん
明太子、ありがとうございました。教えてもらった通り玉子焼きに入れてみました。
うまくいきました!」

昼休みになった瞬間に、長谷川からのメールが来た。
朝から顔を合わせていたが、和子は昼休みが待ち遠しくて仕方なかった。
お昼になれば長谷川さんとメールできる。
まるでその和子の気持ちを見抜いているかのような早いタイミングだった。

「長谷川さん
喜んで頂けて嬉しいです。
玉子焼き、うまくいったんですね。よかったです。
保冷剤足りてましたか?」

「和子さん
おいしかったです。
うちのも喜んでました、いいメニュー教えていただいて、ありがとうございます。
保冷剤は大丈夫でした!
しかし、すっかり暖かくなりましたね。またお時間ありましたら、相模川行きましょう。」

うちのも喜んでました。か。
当たり前のように奥さんのことが出て来て、その文字列を見た瞬間に和子の頭はクラッとした。
そう、そうなんだ、いくら自分が長谷川さんを好きでも、長谷川さんには奥さんがいるんだ。
大切な奥さんが。

メールが嬉しくて少し浮かれていた和子の気分が、いきなり落ちていった。
どんなに好きでも、長谷川さんは奥さんのものなんだ。二日間ずっと考えていたことがまた頭をめぐる。
じゃあ自分は誰のものなんだろう。誰のものでもないつもりだった。
ヒロカズなのかな。
ヒロカズ、どうして好きって言ったんだろう。

「長谷川さん
またお誘いいただければ、ぜひ。
そういえばお弁当リクエストされてましたね。」

「和子さん
そうでした!
是非お願いします。」

どうしよう。
そんなこと言われたら喜んで気合いれて作っちゃうに決まっている。
そして食べてもらったら、もっと好きになっちゃうに決まってる。
断ってしまったほうがいいんじゃないのかな。
それでも和子の指は勝手に返事を書いていた。

「長谷川さん
食べていただけるの、楽しみです。」

いつもはヒロカズが食べてくれている。だから、いつもヒロカズのために料理している。
今回が特別なわけじゃない。
そう、特別なわけじゃないんだ。

「和子さん
また、手をつないでもいいですか?」

和子は息を呑んだ。
そしてゆっくりと返事を書いた。

「長谷川さん
いいですよ。
よろしくお願いします。」

「和子さん
ありがとうございます。
嬉しいです。」

和子は長い深呼吸をした。
どうしてだろう、頭ではダメだと思っているのに、指が勝手に次の文章を書いて送ってしまう。
戸惑いながらも嬉しくなっている自分がそこにいた。
また、長谷川さんに、手をつないでもらえるんだ。あの大きくて優しい手にまた触れることができる。
二つの思いが交錯している中、また、ふと、思い出す。
長谷川さんには奥さんがいるんだ。
勝手に好きになっただけなのに、なんで期待してるんだろう。
何をやってるんだ、自分。
ほんの10秒あまりの一喜一憂。
そしてまたメールがきた。

「和子さん
そういえば、土曜日の焼酎、なかなか明太子に合ってました。
和子さんも飲みました?」

「長谷川さん
飲みました。
芋焼酎、明太子に合うんですね。いつもあの組み合わせを楽しめる九州の方々が羨ましいです(笑)」

和子は、突然またヒロカズのことを思い出していた。
確かにそれは、おいしい焼酎で明太子料理によくあっていた。
それを飲んでいたヒロカズは良い笑顔で、饒舌で、その後朝まで絶妙なセックスをしてくれた。
そして、泣いている和子の頭をずっと撫でて、突然の好きだよ。
ひとしきり寝て起きてからのヒロカズは、何もなかったかのようないつもの優しいヒロカズで、結局その「好き」の真意について和子は確かめることができなかった。
家に来た瞬間から和子の変化に気づいていたあの日のヒロカズ。
もしかして、すべてを分かってくれていたのかな。
そうじゃないと今更、好きだなんて、言えるわけがない。
好きだとしても、いつからなんだろう。
もし始めからそうだったら、二人は、普通の恋人同士で、いびつな関係ではなかったことになる。
自分はヒロカズのことをどう思っているんだろう。よくわからない。
ただ、大切な存在であることは確かだ。一緒にいると何よりも誰よりも安心できる。優しいキスも、丁寧なセックスも、毎日歯を磨くことと同じように和子の生活の一部で、もはやそれが無い自分は考えられない。

「和子さん
九州、結構出張されてたんですよね?
自分は行ったことないのでうらやましいです!」

「長谷川さん
出張してもいつもバタバタしてて、なかなかじっくり現地の味を楽しめませんでした。
せっかく全国あちこち行けたのに、もったいないです。
慌ててお土産買うので、各地のお土産売り場だけには詳しくなりました(笑)」

「和子さん
なるほど、お土産、明太子も絶品でした。
もし自分が旅行とか出張に行くことあったら、教えてくださいね。」

旅行、か。
奥さんと行くのかな。
また和子の心が揺らぎ始めた。
何やってるんだ。もう。
ほんの文章の端々に動揺して、落ち込んで、喜んで。
ほんの30分あまりの間に感情が、動いて動いて消耗していく。

人を好きになるって、こういうことなのか。

和子は、不思議と仕事中に長谷川と接している時は気持ちが封印できていた。
仕事中も長い時間一緒にいるのに、昼休みのメールの時だけ、一喜一憂が激しい。
こんなに疲れるものだったんだ、誰かを好きになるっていうことは。
もう35歳にもなったというのに、決してうまくいかない、はじめから許されない片思いをするなんて。冷静に考えなくても虚しい。
それでも、薄暗い昼休みのオフィスで、ディスプレイの明かりに照らされる端正な長谷川の顔が目にはいると、心の疲れは一瞬で消え去ってしまう。
かっこいい。

長谷川さんが、好き。
大好き。

そうやって心が落ち着かないまま迎えた水曜日の帰り道、珍しくヒロカズからメールが来た。

『明日、行っていい?』

あれ、明日は木曜日なのに。
土日以外にヒロカズに会うなんて本当に珍しい。

『いいよ。何かあった?』

『アジ貰ったから持ってく』

アジ?貰った?
和子はくすっと笑った。ヒロカズ、何を言ってるんだろう。

『アジって魚の?』

『うん。シマアジ』

シマアジ?そんな高級魚どうやって手にいれたんだろう。
処理が難しいんじゃないのかな。

『えっ、さばけるかな?』

『さばいてあるやつだよ。』

『よかった。メニュー考えとくね。』

明日はヒロカズに会える。何となくほっとした。まだ水曜日だったが、ヒロカズの優しさが欲しくなっていたのだった。
シマアジのレシピを調べようとしたら、またヒロカズからメールが来た。

『早く、会いたいです。』

和子の心臓がぎゅっと縮まる音がした。
会いたい。
ヒロカズが会いたいと言っている。
こんな事今まであったのかな。一度もなかったはず。
なんとなく切羽詰まった文面に、少しだけ呼吸が苦しくなった。
こんな事、誰かに言われたことすらなかった。
会わなきゃ。ヒロカズに会わなきゃ。

和子はゆっくりと返事を書いた。

『今日、来てもいいよ。まだ小田急だけど。』

『座間まで迎えに行く。』

ヒロカズ、何かあったのかな。
なにしろ初めてのことなので少しヒロカズが心配だった。
と、同時に突然言われた「好きだよ」を思い出していた。
好きだよ。
早く会いたい。
まるで恋人同士の言葉。今まで言われたことがなかった。

ヒロカズはどんな気持ちなんだろう。

座間の改札でヒロカズが待っていた。

「おかえり。」

「ただいま。」

ヒロカズはにっこり笑って、和子の頭をポンポンと撫でた。
ちょっと恥ずかしかったが、いつものヒロカズの手が、優しさが、心地よかった。

「行こっか」
「うん。」

二人は、手を繋いで歩き出した。

つづく

テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

連載小説「相模川恋唄」21-25

連載小説「相模川恋唄」21-25

四月も終わりに近づき、だいぶ暖かくなっていた。
土曜日11時半の海老名駅、二度目の改札での待ち合わせ。和子はまた10分前にそこにいた。

お土産の明太子の包みには保冷剤を入れまくっていたので夕方まで問題なさそうだった。ただし、少し、重い。
もう少し減らしてもよかったかもしれない、と思いを巡らせていたら、長谷川が横からやってきた。
いつものようにまぶしい笑顔だ。

また、海老名で、会えた。
和子の胸がそわそわした。

「おはようございます」
「おはようございます、あの、これ、明太子です。すいません保冷剤入れ過ぎて、ちょっと重いです。」
そう言って袋を手渡した瞬間、長谷川の指先が和子の手に少し触れた。

あっ、

和子は、一気に心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた。
悟られないようにゆっくり呼吸を整える。
「わ、ありがとうございます。楽しみです。明太子好きなんですよ、夫婦揃って。お礼にあとでお酒ご馳走しますね。」
「いやいや、いいですよそんな。で、それより消費期限、明日なんで気をつけてください。」
「早速今夜いただきます、メニューどうしようかな、和子さんならどうしますか?」
「そうですね、そのままご飯に乗せるのが一番好きですけど、よくやるのは玉子焼きに入れたりとか。」
「玉子焼き!おいしそうですね、あとでコツ教えてください。」
二人は歩き始めた。
駅の階段を降りながら会話が続いていく。
「はい。でも実はコツも何もないんですけど。あと普通にパスタとかピザとかでもいけると思いますよ。」
「なるほど!あー、でもこれからイタリアンか。」
「いいじゃないですか、昼も夜もイタリアン。」
長谷川さん、当たり前のように奥さんの為に料理をがんばって作ってる。
結婚って、そういう事なのかな。でも旦那さんが料理しない夫婦とかもいるはずだ。
やっぱり素敵だな。奥さん、愛されてるんだな。
それに比べて自分は。
料理はするけれど、彼氏ではないヒロカズの為に。喜んで食べてくれるけど、彼氏ではない。何度体を重ねても、いびつな関係でしかない。

長谷川の見つけたイタリアンの店は、駅から徒歩五分くらいの裏通りにあった。
テーブルが四つにカウンター席がいくつか。
12時前だったが既にテーブルは三つ埋まっていた。

「長谷川さん、いい店ご存知ですね。」
「毎週散歩してると発見が多いんですよ。ここもずっと気になってて。」
昔ながらの洋食屋っぽさを残して洗練されすぎていない店内の落ち着いた雰囲気。
店長おすすめのライスコロッケもパスタも絶妙な味で、食事中、二人は自然と笑顔になっていた。

「和子さん、このあと少し時間ありますか?」
「はい。暇です。」
「食後の散歩しませんか。相模川まで。」
相模川、か。
和子は少し想像した。
長谷川さんと歩く春の川岸。
暖かいし、気持ちいいだろうな。
「いいですよ。」
和子が答えると、長谷川は満面の笑みで喜んだ。
「よかった、嬉しいです。途中で缶ビール買っていきましょう。」
「川を見ながらビールですか。」
「もう、最高ですよ。」
「よく飲んでるんですか?」
「春と秋は結構。冬はさすがに無理です。」
「え、夏は?」
「夏はビールもすぐ温くなっちゃうんであんまり。でも猛暑の日も橋の上なんかは、風が吹いてて涼しかったりして。」
会社では決して見た事のない、長谷川の子供のようなキラキラした笑顔。
和子はすっかり魅了されていた。
長谷川さん、ほんとに相模川が、お気に入りなんだなぁ。
そこに連れていってもらえる事が何より嬉しかった。

長谷川は、相模川までの道をよく知っており、何ルートもオススメがあると言っていた。
線路沿いに行くのかと思っていたがそうではなく、大きな道路を横切り田園地帯を抜け相模川まで。
そう遠くなく20分も歩かなかった。

相模川。
山梨から流れてくるその川は、厚木のあたりでは大きな川幅の中をかなり緩やかに流れていく。
たまに電車から見る程度だった和子にとって、すぐ近くまできたのはもちろん初めてだ。
思わず声が出るほどそれは美しかった。
空の青と太陽が川に反射し、どこまでも広く長くキラキラと光り続けている。
「すごいですね。綺麗。ここまで来たの、初めてです。」
「ほんとに初めて?」
「はい、もったいなかったですね近所なのに。長谷川さんが毎週来るの、分かります。」
和子は目の前の景色に少なからず興奮していた。
こんなに綺麗な川だったんだ。長谷川さんは毎日、電車からここを見て会社に来てるんだ。
そして、今は自分と一緒に、そこにいる。

この川の向こうの本厚木、長谷川さんはそこに住んでいるんだ。
和子は、近いようで遠い対岸を見ながら思った。
長谷川さんは、今はここにいるけど、こうやって同じ景色を見ているけど、川の向こうの人なんだ。そこには帰る家があって、愛する奥さんが待っている。
私には、待っていてくれる人は、いない。
和子の胸がチクリと痛んだが、それをごまかすように缶ビールを開けた。

二人はビールを飲みながらしばらく川沿いを歩いた。
ちょうど、最初の缶が空っぽになった時、和子の右手に温かいものが触れた。

長谷川の左手だった。

「手、つないでいいですか?」
「えっ、あっ、はい、えっ」
和子は何が起きたかわからず、完全に混乱していた。
咄嗟に手を引こうとしたが、既に長谷川の大きな手が、しっかりと和子の手を包んでいた。
何で?何で?
「ありがとう。」
長谷川が言ったが、和子は恥ずかしくて顔を見ることができなかった。
腕全体に緊張が走る。
しかし、心の奥底で嬉しさを感じている自分がいた。

長谷川さんの、手だ。

忘れられなかった優しい大きな手。ビールの缶で冷えているかと思いきや、それは今日もあたたかかった。
その確かな感触。和子も、ゆっくりと手を握り返した。
しばらく二人は無言だったが、歩くにつれて少しづつ和子の緊張も溶けてきた。
「長谷川さん、もう、何やってるんですか。」
和子は冗談っぽく言って長谷川を見上げた。
それが精一杯だった。
「和子さんの手、カワイイから。つなぎたくなっちゃって。」
長谷川は笑顔で答え、繋いだ手をぎゅっと握る。
和子は、恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになり、慌てて視線を外した。

手がカワイイ。

長谷川に言われるのは何度目だろう。これまで誰にも言われたことなかったのに。どうしてだろう。35歳にもなって初めて言われたその一言が、本当に嬉しかった。
こんな荒れた手をカワイイって褒めてくれるなんて。
心臓が高鳴り、耳の先までドクンドクンと脈打っているのを感じていた。
いま、長谷川さんと、手をつないで歩いている。
これは現実なんだ。

「ちょっと座ります?」
ちょうど、ベンチのあたりで長谷川は立ち止まった。
「あ、はい」
和子はまだ、長谷川の目を見ることができなかった。
「ここの景色、なかなかすごいですよ。」
二人は手をつないだまま、ベンチに腰を下ろした。
目の前に広がるキラキラとした相模川。青く、ゆるやかに美しい。
そして遠くに見える陸橋では小田急が走っている。
「ほんと、いいですね。」
「いつも、ここで座ってビール飲むんです。ぼんやりこの景色見てると、落ち着くんです。」
和子は恐る恐る長谷川を見上げた。長谷川は真剣な顔で川を眺めている。
かっこいいなぁ。
思わず見惚れてしまう、その端正な横顔に和子の胃のあたりがきゅっと縮んで痛くなった。
美しい川を見る、美しい長谷川の横顔。
いつまでも見ていたい気になったが、慌てて視線を川に戻した。
キラキラ光る川面、時折魚が跳ねている。
「なんか、いろいろ辛い事とか忘れられそうですね。」
和子はゆっくりと言った。
長谷川はそれに対して何も言わず、ゆっくりと手をきゅっと握った。
長谷川の手の暖かさ。
大きな優しい手。
和子の手もすっかり馴染んで、二つの手は溶け合うようにくっついていた。

私、長谷川さんのこと、好きなのかもしれない。

和子の頭に、ふとそんな事が浮かんだ。
いや、そんなはずはない。
好きになるはずなんてない。
長谷川さんは会社の上司だし、奥さんもいるんだし。
和子は、頭の中で一生懸命打ち消していた。
誰かを好きになる感覚なんて、長年味わってなかったんだから、こんなはずじゃ、ないんだ。

「相模川、気に入って頂けましたか?」
長谷川が言った。
「はい、もちろん。」
「よかった。」
長谷川は嬉しそうな笑顔を和子に向け、二人の目が合った。
和子は、そのまっすぐな視線に吸い込まれそうになった。
そして、思いもよらず、勝手に口が動いた。

「また、一緒に、来たいです。」

あっ、何を言ってしまったんだ私。和子は慌てて取り消そうとしたが、長谷川の答えのほうが早かった。
「僕もです。」
そう言うとまた、長谷川はにっこりと笑った。
和子もつられて笑顔になった。

好きだ。
長谷川さんが、好きだ。

抑えられない気持ちが体の中に溢れている。
それは35歳の和子にとって初めての感覚だった。触れ合っている手のひらから、全身が溶けていってしまいそうなくらい、長谷川の存在が、大きかった。
思えばそうだった。偶然会いたくて海老名では長谷川の姿を探し、お昼休みの長谷川とのメールは会社での唯一の楽しみ、旅行中も長谷川のことが頭から離れなかった。
和子はずっとずっと、長谷川に惹かれていたのだ。
もう、とっくに好きだった。
とっくに大好きだった。
それはどんなに否定しようとしても、もう無理だった。
長谷川さんが、好きだ。
でも、好きになってはいけないんだ。気持ちを伝えることすら、してはいけないんだ。
諦めなくちゃいけないんだ。
長谷川さんには家庭がある。
そう、この川の向こうに。
和子の心に、途端に悲しみがあふれてきた。

「やっぱり、カワイイなぁ、和子さんの手。」
長谷川はそういうと、手を繋ぎ直した。
今度は指と指を互いに絡ませ、さっきよりも密着する繋ぎ方だった。
和子の全ての指の間に長谷川の指が入り込む。そして、大きく包み込む。その感触に息が止まりそうになった。
長谷川さんの手。大きな手のひら。大好きな長谷川さんの、優しい手のひら。今は、私だけがそれに触れている。
和子はゆっくりと手を握り返した。
手を何度もカワイイって褒めてくれて、こうして包み込んでくれて、こんなに近くにいて。
今、こうしていられるだけで、それでいいんだ。
もうこの気持ちは忘れよう。

和子は必死に頭で考え、泣いてしまいそうなほど悲しい気持ちになった。
好きになってはいけないのに、好きになってしまった。
好きになったのに、諦めなくちゃいけないんだ。
長谷川さんは川の向こうの家庭に戻るんだ、この手を離さなきゃいけないんだ。

和子がそんな気持ちになったことに気づいたのかそうではないのか、長谷川はゆっくりと右手を差し出し、繋いだ手の上から更に和子の手を包んだ。
「こんなにカワイイ手で、料理するんですね。」
包み込む両手があまりにも大きく、温かく、そして優しく、和子は泣いてしまいそうだった。
もう、この手を独り占めすることなんか、ないんだろうか。ないんだろう。
こんなに長谷川さんの手のひら、優しいのに。
いけない、何か言わないと泣いてしまう。
和子は慌てて声を出した。
「あ、いや、あの、その、手が小さいので、カボチャとか切るとき、押さえづらいです」
「カボチャですか!」
「カボチャです!」
和子は無理やり元気な声で答えた。
あまりに突然元気よく答えたからか、長谷川は笑い出し、和子もほっとしながら笑った。
「和子さんの料理、食べてみたいなあ。」
長谷川の言葉に、また和子の口が勝手に動いていた。

「じゃあ今度、お弁当作ってくるんで、ここで食べましょうか?」

えっ。
何言ってるんだ、私。
「それいいですね、ぜひお願いしたいです。」
長谷川は嬉しそうだった。
もう、今更取り消せない。
「いいですよ。」
ああ、なんてことを言ってしまったんだ。
会ったりしたら、また今みたいに、つらくなるのに。会ったらもっと好きになっちゃうんだから、もう会わないほうがいいのに。
でも、それでも会いたいんだ、ここで、長谷川さんに。それでも、会いたい。
「嬉しいなぁ。約束、ですよ。」
長谷川は、そう言いながら繋いだ手をそっと持ち上げた。
そして、突然和子の手の甲に、柔らかいものが触れた。
長谷川の唇だった。
長谷川は、和子の手の甲にそっとキスをして、そして和子の目をじっと見た。

えっ。
なんで?
和子の全身が硬直した。

あまりに突然すぎて、和子は何も言えずにただただ長谷川を見つめていた。
「いきなりすいません。カワイイから、つい。」
長谷川はそういうと、和子の手を両手で包んだ。
それはどこまでも優しく、大きく、温かく心地かったが和子の動揺はなかなかおさまらなかった。
「あの、あの、長谷川さん」
和子の口が勝手に動き出した。

「もう一回お願いします。」

ダメ、何言ってるんだ自分。

「いいですよ。」
長谷川はそういうと、目を閉じて深呼吸をした。
「なんだか緊張してきました。」
小さい声でそう言いながら、和子の手をそっと持ち上げる。ひとつひとつの感触の柔らかさ。
愛おしそうに少し微笑み、でも目は真剣、そんな長谷川の横顔に、和子の息が止まった。
なんて素敵なんだろう。
「いいですか?」
長谷川が言った。
「はい。」
和子の答えを待ってから、長谷川は和子の手に再び口づけをした。
柔らかく、優しいキスだった。
和子は全身に電流で打たれたような衝撃がゆっくりと走り、少し震えた。
好きだ。
好きなんだ。
そして同時に、虚しさにも似た切なさが襲ってきた。
好きになっちゃ、いけないんだ。
「ありがとうございます。」
和子は、ようやくそう言って、視線を川に戻した。
悲しくて泣きそうだったが、それでも、嬉しかった。大好きな長谷川さんが、何度も手をカワイイって言ってくれて、その手を大切に扱ってくれて。
ずっと覚えていよう。優しい大きな手のこと、愛おしそうに手を取ってくれた横顔のこと、繊細なキスのこと。頭では忘れてもずっと手が覚えているはずだ。
覚えているだけなら、許されるはずだ。

相模川は、相変わらず綺麗に光っていた。

その後二人は海老名に歩いて戻り、いつもの酒屋で焼酎を買って帰宅した。
何事もなかったかのように普通に会話しながら、それでも海老名までの道のりは、しっかりと手を繋いでいた。

帰宅して料理を始めても、和子の心は長谷川のことを考えてしまい、ずっとヒリヒリとしていた。

すっかり日が暮れた夜8時、ヒロカズがやってきた。

つづく

テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

連載小説「相模川恋唄」16-20

連載小説「相模川恋唄」16-20

次の土曜日、和子は大学の後輩の結婚式に出席するため福岡は博多へと向かっていた。
前の会社で出張しまくっていたので長距離移動は慣れていたはずだし、博多自体が13回目となるのだが、久しぶりの飛行機に心なしか緊張していた。
離陸してしばらくして、シートベルトサインも消えた頃。

相模川、見えるかな?

和子はふと思って窓から地上を見下ろした。
もちろん、何処だかわからないうえに、雲しか見えなかった。

見えるわけ、ないじゃん。
何やってんだ、私。

博多に行くなら明太子がほしい!と、前日和子は長谷川にメールでお願いされていた。
と、同時に実は、ヒロカズにも博多に行くのなら来週の土曜日は明太子料理を食べたいとリクエストされていた。
二人とも辛いものが好きなんだな。
ヒロカズと長谷川の共通点なんて考えた事もなかったが、食べ物の好みは意外と近いのかもしれない。
でも長谷川さんは甘いものも好きだったな。
ヒロカズは、甘いもの好きなんだっけ。
不思議とそれが思い出せない。一緒に食べた事あったっけ。
和子が進んでケーキを買ったりしないタイプなので、家で一緒に食べたことはなかったような気がする。

「高橋さんってまだ座間に住んでるんですね。」
それは結婚式二次会のことだった。
大学の後輩比佐子が瓶ビール片手に和子の隣にやってきた。
比佐子は170センチの長身で、スタイルもよく顔も日本人離れした美人。学生時代はスーパーモデルというあだ名で呼ばれていたこともある。
「わっ、ひさちゃん、何で知ってるの」
「幹事だし。で、転職したって本当ですか?」
「そうそう、でもそれ五年前」
どちらかというと和子は面倒見の良い先輩、といった存在だったので、後輩と仲がよかった。比佐子とも大学時代からよく一緒に遊んでいた。
お互い卒業後も時々会っていたが、30歳が近づくと不思議と会う頻度が減っていった。
それは比佐子に限らず、大学時代の先輩や同級生についても同じだった。30歳、というのが何かしらひとつの境目になっていたのかもしれない。
「前の会社であちこち飛び回ってましたよねえ、たまにメールすると信じられないとこにいたりして。」
「そうそう、博多も何度も来てて、これ、13回目。」
「えー、美味しい店知ってたら教えてくださいよー」
「無理無理、もうほんと滞在時間毎回2時間とかだったし。なんとか頑張ってラーメン食べるくらい。」
「へー」
この感じ、久しぶりだな。
すっかり都心のオフィス通勤にも慣れ、この二年、週末はヒロカズと会うだけの生活だった。会社の人とヒロカズしか話す相手がいなかった。
20代の頃はそれこそ日本全国飛び回っていたし、休みの日は大学時代の知人友人と会って飲んだり出かけたり。にぎやかな日々だった。
「そういえば高橋さん、彼氏と相変わらずなんですか?」
比佐子はクリッとした目で和子を見下ろした。
「へ、彼氏っていつの話?」
「前聞いた時同期の人って言ってた。」
ああ、懐かしい。
「とっくに別れた。それも、もう七年前とかの話!」
「へー、あれそんなに前の話ですか。今はいい人いるんですかぁ?」
比佐子が覗き込んできた。
ああ、どうしよう。
彼氏はいない。でもヒロカズがいる。
比佐子ならヒロカズの話をしても分かってくれそうな気がしないでもない。
一秒考えてから、和子は笑ってごまかした。
「シングルシングル!ずっとひとり!」
そう、ヒロカズは、彼氏ではない。
「へー、勿体無いなぁ」
比佐子は本気で残念そうだった。
「あ、、でもね、でもね」
和子は続けた。

「彼氏いないけど、好きな人がいるんだな。」
長谷川の笑顔が、ぱっと頭に浮かんだ。

比佐子は即座に反応した。
「えー、好きな人って!高校生じゃないんだから!片思いですか!まさか!」
「え、いやいや、冗談冗談。」
和子は笑ってみせた。
「なんだー、高橋さんらしくないからびっくりしたー。」
「びっくりした?びっくりした?やったー」
和子は気づかれないようにそっと呼吸を整えた。
まさかね。長谷川さんはただの上司、おまけに愛妻家。
「でもぉ、高橋さんには早く結婚してほしいです、料理うまいしー、面白いしー、かわいいしー、頭いいしー、お酒強いしー」
比佐子は緩んだ顔で言った。

結婚、か。
和子は笑いながら、酔った頭でゆっくり考えた。
結婚って、毎日誰かが家にいる生活なのか。ヒロカズがウィークデイも家にいるような感じなのかな。毎晩一緒に寝るのかな。
毎日相手の帰りを待ったり、待っててもらったり。毎日お弁当作って食べてもらったり、ご飯作ったり作ってもらったり。一緒に食べたり。一緒にテレビ見たり。それが毎日。毎日そんな感じなのか。
一人暮らしが長い和子には、どうしても自分が誰かとそうなる事が想像できなかった。

ふと長谷川のことが頭をよぎる。長谷川さん、毎日奥さんとそういう生活を続けてるのか。
奥さんと一緒に寝て起きて、奥さんが家で待ってるんだ。
奥さんと、、いや、何考えてるんだ、わたしは。ダメダメ。

瞬時に頭を巡った妄想をかき消す為に、和子は言った。
「ひさちゃんは最近どうなの?」
「ここ三年くらい同棲してるんですけどー。」
「あら、結婚しないの?」
「うーん、なんかあの人とは、結婚しないんじゃないかな、、」
比佐子は少し真顔になった。
和子は軽い衝撃を受けた。三年一緒に暮らしていても、結婚しないなんて。
「え、なんで」
「好きだし毎日楽しいんだけど、一生そんな感じでいられないと思うんですよね、あの人とは。」

一生。
その言葉の重みを和子は感じていた。
結婚って一生続くんだ。そういう事なのか。

「へー、よくわかんないけど、いろいろあるんだねぇ。」

長谷川さんは、そういう人がいるんだな、家に。
和子はふと思い、心がじんと痛くなった。
いやいや、だから何ですぐ長谷川さんのこと考えてるんだろう。
福岡まで来たのに、私。
ダメダメ、今日は楽しまなきゃ。

「高橋さーん、飲みましょー」
後ろから別の後輩がやってきた。

福岡の夜は楽しく更けていき、翌日は翌日で後輩たちとラーメンを食べたりお茶を飲んだり、久しぶりの旅行を和子は堪能していた。

夕方、羽田着。
羽田についたら教えて、と、ヒロカズに言われていたので和子は京急のホームからメールで知らせた。
すぐにヒロカズから返事がきた。

「座間まで迎えに行く」

えっ。
まったく予想していなかった。ヒロカズが駅まで来てくれる。
何故だろう。
自分の家以外でヒロカズに会うこと自体一年半ぶりくらいのはず。

そうしたら本当に、座間駅の改札でヒロカズが待っていた。
「お疲れ様。」
和子を見ると、ヒロカズがくしゃっとした笑顔になった。
ああ、ヒロカズの笑顔は安心する。和子は、戻ってきたんだ、という気分になった。
「ありがと、、、で、、何で?」
「荷物、多いかと思った。」
ヒロカズはそう言って笑い出した。
実は、旅行に慣れている和子の荷物は少なかった。中ぐらいの鞄ひとつに、お土産の紙袋ひとつ。
「あー、ごめん、荷物少ない、、」
和子もつられて笑った。

それでも重いほうの鞄を持ってくれたヒロカズと、和子は並んで歩いた。ヒロカズは心優しい。こういうときもさりげなく重いほうの鞄を持ってくれる。そんなちょっとした気遣いが嬉しく、ありがたかった。
「博多でラーメン食べた?」
「まあ一応」
「一応、って何」
「ちょっと行きやすいとこで妥協しちゃった」
「妥協するほど詳しいの?」
「博多、実は13回目」
「えっ」
「前の会社でよく出張してた。」
二人はいつの間にか手を繋いで歩いていた。どちらからともなく繋いでいた。
いつも家でくっついて寝ている二人にとって、それは自然なことだった。

こんな風にヒロカズと手を繋いで歩いたことあったんだっけ。初めてかもしれないな。

いつも、思い出せずにいたヒロカズの手。それは長谷川の手ほど大きくはない。
でもそういえば、繋ぎ慣れている手だった。女の子の手みたいに柔らかく、しっとりとしていて、ちょっとだけ体温が低い。ヒロカズの手、そうだった、こんな感じだったんだ。改めて触れると、当たり前のようにそれは心地よかった。
和子の手の体温が、ヒロカズを少しずつ温めていく。
感触を確かめるかのように、時折和子がぎゅっと手を握ると、ヒロカズも呼応してぎゅっと握り返してくれた。

月明かりが優しい夜だった。

手の体温が同じくらいになる頃、二人は和子の家に到着した。
ヒロカズは毎週そうしているように、一緒に和子の部屋へ入ってきた。いつも土曜日にやってきて日曜日に帰っていくヒロカズ。一日ずれてるだけでも少し新鮮な感じがした。
「ありがと、助かったー。」
荷物をおろしたその瞬間、ヒロカズが後ろから和子に抱きついてきた。背中に密着するヒロカズの体。それは、いつもの安心する感触だった。
「おかえり。」
「ただいま。」
和子は振り向きながらヒロカズを見上げた。笑顔のヒロカズと目が合う。
「キスしていいですか。」
ヒロカズが言った。
和子は思わず吹き出した。
「なんで敬語?」
「わかんない。」
和子は目を閉じてじっと待つ。すぐさまヒロカズの唇が右の頬にそっと触れ、左の頬にそっと触れ、そして和子の唇にそっと触れてきた。二人の唇がそっと重なる。それはいつも通りの、安心する感触だった。

和子はゆっくり目を開けた。
ヒロカズの笑顔がそこにあった。和子も自然と笑顔になった。
「もう一回、いいですか?」
ヒロカズは言った。
「だから、なんで敬語?」
「わかんない。」
会話しながら二人の唇が近づいていく。
キスしては見つめ合い、またキスしては見つめあい、徐々にキスの時間が長くなり、お互いの唇が触れ合うだけでなく吸い合うようになり、舌先が触れ合い、絡み合い、お互いの唾液が流れ込んで行く。最後は長く長く、時間をかけて丁寧に。それが、いつも通りの二人の呼吸。二人の儀式。
いつも通りのヒロカズの温かい吐息や口の中の溶け合う感触。旅行中少しだけ緊張していた和子の心が、すっかり解きほぐれていた。
長いキスの後、二人はしばらく、抱き合った。
「ヒロ君、ご飯食べた?」
「まだ。」
「何か作ろっか?」
「久しぶりに外で食べたいです。」
「えっ」
ヒロカズからそんな事を言われるとは思ってもいなかった。初めてかもしれない。
「たまには、いいじゃないですか。」
「だから、なんで敬語?」
「わかんない。」
二人はまた、笑いだし、見つめ合い、再び確かめるように長いキスをした。
「かずちゃん、あのさ、帰ってきたら、さ」
ヒロカズが小さい声で言った。
「なんでしょう。」
「帰ってきたら、、したい、、です」
「だから、何でまた敬語?」
「わかんない。」
そう言いながらヒロカズの右手は和子の頭をそっと撫でた。
「いいよ、しよっか」
和子はヒロカズの首筋に顔をうずめた。いつもの匂い、いつもの体温。
落ち着くなぁ。
「よろしくお願いします。」
ヒロカズは急に真面目なトーンで言った。
「もう、何で敬語?」
「さあ。」
こんなに分かり合えているのに、こんなに落ち着けるのに、二人の言動は明らかに恋人同士のそれなのに、ヒロカズは、彼氏ではない。
和子は必死でその事を思い出さないように心の奥に沈めながら、ヒロカズと抱き合っていた。

二人はすぐ近くの中華料理店で夕飯を食べ、和子の家に戻った。
そして一緒にお風呂に入り、その後深夜まで、丁寧にゆっくりとセックスをした。
ヒロカズはいつものように、達する瞬間、子犬のような声をあげ、和子に体を預ける。
混じり合う二人の汗と体温。吸い付くようなヒロカズの滑らかな肌。
今夜の和子にとっては、そのすべてが懐かしく、心地よかった。
そして二人は抱き合ったまま今夜も眠った。

明け方4時くらい、ヒロカズが帰ろうとしている音で和子は目が覚めた。
しかし、ここで起きてしまうとヒロカズに気を使わせてしまいそうで、眠ったふりを続けていた。
「かずちゃんおやすみ」
ヒロカズの声が聞こえる。優しい声だった。
起きたほうがいいかなと思っていたら、突然、頬にヒロカズの唇が触れた。

ヒロカズ、キスしてくれた。

和子の心臓が大きく脈打った。しかし起きていることに気づかれぬように、呼吸のペースを守った。
右の頬に、そして左の頬に、最後は唇に。
いつものように三回のキスをして、ヒロカズは帰っていった。

起きてるって気づいてたのかな。
和子は思った。
寝てる自分に優しくキスをして帰っていくなんて、本当に恋人同士みたいだ。彼氏じゃないのに。

そんな事を思いながら、和子は再び眠りについた。

「和子さん
福岡、どうでした?
実は九州行った事ないんで少し羨ましいです^ ^」

「長谷川さん
博多は前の会社でよく出張していたので、、実を言うと13回目でした。
でも今回は久しぶりなので、それなりに新鮮な気持ちでしたよ。」

和子は行きの飛行機のことを思い出していた。
相模川見えるかと窓から見下ろしたこと。つまり、長谷川のことを考えていた。
月曜日になれば職場で顔を合わせ、こんな風にメールで話ができるのに。

「和子さん
13回目!びっくりです。
出張多いお仕事だったのですか?」

「長谷川さん
年の半分以上は出張行ってるみたいな生活でした>_<
大変でした。転職してよかったです。」

「和子さん
年の半分!
出張少し羨ましい気がしましたが、さすがにそれは大変そうです。
和子さん前の会社でも大活躍されていたんでしょうね。
うちの会社、物足りなくないですか?」

「長谷川さん
物足りなくはないですが、毎日家に帰れるありがたさが今も身に染みます(笑)
そんなわけで、もっと仕事振られても大丈夫ですので遠慮なさらずどうぞ。」

和子は、前の会社の話を職場では殆どしなかった。出張が多かった件は普通に話すと会話の流れによっては説明が面倒になったりもするからだ。

「和子さん
さすが!頼もしいです!
和子さんなしではとても回らないので感謝していますよ。」

「長谷川さん
ところで、長谷川さん、お土産にリクエストされた明太子買ってきました。
要冷蔵なうえに今度の日曜に消費期限を迎えてしまうのですが、どういたしましょうか?」

和子は明太子のことを思い出した。職場では周囲の目があるために個人的に渡すわけにもいかない。
結局、今日は持ってくることができなかった。

「和子さん
そうですね、では土曜日に海老名で受け取りましょうか!
今度の土曜日、お暇ですか?」

えっ。
和子の喉の奥がぎゅっと熱くなった。
土曜日に海老名で。その言葉の意味するところ。
また、海老名で長谷川さんに会えるのかな。偶然ではなく、約束をして。

「長谷川さん
お暇です(笑)」

「和子さん
やった!
それではまた、ランチでもいかがですか?
行ってみたいイタリアンのお店があるんです。」

一瞬冗談なのかもしれないと思ったが、長谷川は本気のようだった。

長谷川さんと、海老名で、また会える。
二人っきりでまた、会える。

和子の胸は高鳴っていた。

「長谷川さん
ランチ了解です。
イタリアンですか。楽しみです。」

きっと長谷川の選んだ店だから、またおいしいんだろうな。
和子は大きな手でフォークを操ってパスタを食べる長谷川を想像していた。何かそれだけで満ち足りた気分になっていた。
ダメダメ、週末まで我慢しないと。

また、忙しい一週間が、あっという間に過ぎていった。

つづく

テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

連載小説「相模川恋唄」11−15

連載小説「相模川恋唄」11-15

土曜日、ということは奥さんはお仕事。二人きりで食事ってことかな。そうなのか。
突然食事に誘われた戸惑いよりも、約束をして会える喜びのほうが和子の心の中で勝っていた。

長谷川さんに、また海老名で、会えるんだ。
偶然じゃなくても、姿を探さなくても、会えるんだ。

少しだけ、指先が震えた。

「長谷川さん
ぜひ行ってみたいです。
よろしくお願いします。」

「和子さん
ありがとうございます。
では土曜日は、おデートということで!」

和子は思わす吹き出した。
おデート。
そんな言葉リアルに使う人、初めてかもしれない。長谷川さんのボキャブラリー、面白いな。

「長谷川さん
はい、おデートですね了解です(笑)
長谷川さん面白い単語使いますね(^^)
今週はガンガン仕事しますので、よろしくお願いします。」

「和子さん
おっ、さすがですね。
和子さんの場合は今週は、ではなく今週も!だと思いますが。(T_T)
では遠慮せず、いろいろ頼みますね!」

どうしてだろう、こうして毎日会社で顔を合わせているのに、土曜日会えると聞くと、いつのまにか楽しみで胸がいっぱいになっている。

それから週末までは、あっという間に過ぎていった。

土曜日11時半、海老名の改札で。
二人の週末が始まった。

土曜日は朝から良い天気だった。
和子は少し早めに家を出て海老名に行き、長谷川へのプレゼントを選んでいた。お酒を貰ったお礼だ。
ハンカチやネクタイだとありきたりな気がして、思いついたのは靴下だった。

長谷川さん、何色が似合うかな。
いつもかっこいい長谷川さんだから、きっと、どんな色でも似合うんだろうけど。

和子はさんざん迷った結果、水色の靴下を手にしていた。
そう、それは透き通った空の色。和子は実は水色が好きで、色でも何かと迷った場合はいつも最終的に水色に落ち着くことが多い。それは透き通った空の色。長谷川によく似合っていた。
もちろん、好きな色だから和子も水色の靴下を何足か持っていた。

お揃いになっちゃったな。ま、いいか。
同じ色の靴下。さほど色のバリエーションがあるわけではないのでそんなことはよくある話なのだが、長谷川とお揃いになれることが、少し嬉しくて少しだけ緊張した。

海老名の改札、11時半。
和子は10分前にそこにいた。

改札から人が吐き出されてくるたびに、和子は長谷川の姿を探していた。少しだけ期待して、少しだけがっかりして。その繰り返し。何度目かのがっかりをしていたその時、横から声がした。

「おはようございます。」

長谷川だった。

あっ、そうだった。
長谷川さん歩いてくるから改札から出てこないんだった。なんだ。和子は自然と笑顔になった。
「おはようございます。あのこれ、相模川のお礼です。」
小さな包みをそっと手渡した。
「ありがとう、何だろう?楽しみです。」
「靴下です。」
長谷川は突然笑い出した。
「靴下。靴下ですか。渋いですね!」
「えっ、そうですか?」
長谷川は何だか楽しそうだ。
こんな無邪気な顔、会社で見たことない。
「こういう時ってハンカチとか。」
「ハンカチも考えたんですけど、ありきたりな感じがしたのでいろいろ考えてたら靴下になっちゃいました!」
「和子さんらしいですね、ありがとう。」

ありがとう。
そう言う長谷川の笑顔がとても、優しかった。
自分だけに向けられている優しい長谷川の端正な笑顔。和子の胸がきゅっとなった。

長谷川の見つけたレストランまでは、歩いて15分。二人は並んで歩いた。
なんだかデートみたいだな、和子は思った。いやいや、ただ食事するだけだから。

すっかり春になり、よく晴れて暖かく、歩いていても、とても気持ちのよい日だった。
長谷川は時々立ち止まって、その付近に住んでる猫のことや、以前歩いた時に見た出来事などについて話してくれた。
毎週のように散歩している中、長谷川は、ほんの小さな裏通りや小さな出来事も楽しんでいるようだ。いきいきとして話すひとつひとつのエピソードが微笑ましくて、面白かった。

酒造のレストランだから和食かと思いきや、その店はフレンチの創作料理がメイン。人気があるようで満席だった。
今日のランチは鶏のチーズ焼き。こんがり焼けたいい香りがお店に広がっていた。
「地ビールもおいしいらしいんですけど、和子さん、お酒飲みます?」
昼間からビール。休日の醍醐味だ。
「勿論いただきます。」
「やっぱり。和子さんはそうでなくっちゃ。じゃあ自分も飲みます。付き合いますよ、」
「長谷川さん本当は自分が飲みたかったんじゃないですか?」
「あっ、、、バレました?」
長谷川はいたずらっぽくはにかんだ。

料理もビールもとても行き届いた店で、和子も長谷川も会話がはずんだ。
そして和子がパンをちぎっていたときだった。和子の手をじっと見つめた長谷川が突然言った。

「和子さん、手、かわいいですね。」

「えっ」
突然すぎて驚いた和子は、咄嗟にテーブルの下に手を隠してしまった。
「あ、すいません」
和子はドキドキしながらそう言うと、ゆっくりとまたテーブルの上に手を出した。
和子は手をかわいいと言われたことは今まで一度もなかった。指はあまり長くなく、毛深いし肌は荒れ気味。いきなり長谷川に褒められて恥ずかしかった。

「ちょっといいですか?」

長谷川はそう言いながら強引に和子の手を取った。
そして自分の手のひらと、そっとくっつけた。

あっ、、
和子は拒む隙もなかった。

「和子さん、手、小さいんですね?かわいいなあ」
長谷川の大きな手、その手のひらに収まりそうなくらい和子の手は小さかった。
こんな風に誰かと手の大きさを比べるなんて、ものすごく久しぶりのことだ。長谷川の手の感触に、和子の胃のあたりがドクっと熱くなった。
長谷川さんの手のひら、優しいな。
「いや、長谷川さんの手が、大きいですよ、」
和子はようやくそう言うと、手を引っ込めてパンに戻った。
長谷川の手のひらの心地よさに、このままくっつけていたいと少しだけ思っていた。
ダメダメ、そんなことしちゃ。
なにより手に汗をかいてしまいそうで、あまり長く触れていられなかった。
「そうですか?」
「そんなに大きいと携帯とか打ちづらいことありません?」
「あー、苦手です携帯のメールとか。」
長谷川は苦笑した。
和子はまだ鼓動がおさまらなかったが、会話を続けた。
「私も携帯メールあんまり得意じゃないです。そういえば長谷川さん、パソコンは凄いスピードで打ってませんか。」
「実はノートパソコンもキーボード小さくて打ちづらいです、会社だと外付けのキーボードつけてるんですよ。」
「あ、あのゴツいやつですね!」
「そうそう、もうB5ノートしか支給されないの、困っちゃいます。」
「A4のほうがいいですよね、B5はモニター小さいし。」
長谷川は確かに職場で、テンキー付きのキーボードを繋いで使っていた。

あれにはそんな理由があったのか。
何事にも器用なイメージの長谷川さんなのに、携帯メールが苦手なんて。ちょっとかわいいな。

「和子さんは手が小さくて困ったことありませんか?」
「楽器とかスポーツとかでは若干不利ですけど、日常生活ではそんなにないですかね。」
「瓶の蓋とか大丈夫?」
「あー、時々つらいです。なめたけの瓶開けるの辛いです。家に男の人ほしいです。」

そう言いながら、和子はヒロカズのことを考えていた。
二人でいる時、瓶の蓋はヒロカズがいつも率先して開けてくれるし頼めば力仕事も進んでやってくれる。ウィークデイに溜まってた家事もそれとなく手伝ってくれる。料理もすべて和子任せではなく手伝ってくれたりもする。いつも、ヒロカズはとても心優しい。
男の人がいなくてもヒロカズがいてくれれば困ることはない。
でも、和子は今日も、ヒロカズの手がどんなだったか思い出せない。毎週のようにセックスをして、手を繋いで眠っているのに、よく頭を撫でてくれるのに、ヒロカズの手が思い出せない。

「なめたけ!たしかに固いですよね!」
「そうなんです、だからもう、なめたけは、瓶に頼らないで自分で作ったりしてますよ。」
「凄いですね!食べてみたいです。」
「いやいやいや、煮るだけなんで簡単ですよ。」

パンやチキンを食べながら、続きのビールを飲みながら、さっきの長谷川の温かくて優しい手の感触がいつまでも手に残っていた。

ランチの後、二人は海老名の駅に戻り、いつもの酒屋で同じワインを買った。
長谷川は海老名に来るときは徒歩だが帰りは電車。別々のホームに二人は降りて行く。

「また、月曜に」
手を振る長谷川。
和子も笑顔で手を振った。

あっという間に月曜日がやってきた。

「和子さん
靴下ありがとうございました。好きな色でした。」

「長谷川さん
水色、お好きなんですか?私も実は好きなんです。喜んでいただけてよかったです。
それにしても、美味しかったですね、ビールもチキンも」

「和子さん
美味しかったですね!
また行きましょう!
ところで、なめたけのレシピ教えてもらえませんか^_^」

「長谷川さん
なめたけですか!
そんなレシピといえるほどのものが無いです。えのきを、醤油とみりんで煮るだけです。」

「和子さん
えー、簡単なんですね?
でも分量とか難しいんじゃないですか?」

「長谷川さん
分量ですか?
気にしたことないです(-_-)。
適当に味見しながらやって大丈夫ですよ。」

「和子さん
わかりました、今度やってみます。
うちのが、なめたけ好きなんですよ。」

「長谷川さん
よほどのことがなければ失敗しませんよ。
ぜひ奥さんに作ってあげてください!」

気づけば二人の共通の話題が、先週より増えていた。

和子はいろいろ気になった。
靴下のこと、奥さんになんて言ったんだろう。
私と食事したこと、奥さんは知ってるのかな。
あの店、奥さんと行ったりするのかな。
いろいろ頭を巡っていたが、もちろん聞くことはできなかった。

「和子さん
そういえば土曜日のワイン、どうでしたか?
正直もう少し酸味が欲しいなと、思いました。うちのは飲みやすくて気に入ってましたが。」

「長谷川さん
ちょっと甘すぎでしたかね。辛めの麻婆豆腐には、そこそこ合ってました。
奥さん、飲みやすいお酒が好きなんですか?」

「和子さん
あんまり渋いのは好きではないみたいですね。それでもお酒自体には強いので何でもよく飲みますよ。
でも、和子さんに比べたら弱いです(笑)」

普段職場であまり家庭の事は話さない長谷川だが、和子の質問には答えてくれる。
なんとなく行間が楽しそうで、和子は自然と笑顔になった。
いいな、奥さん。
長谷川さんに愛されているんだな。
と、同時に、喉の奥が少しだけちくっとした。

「長谷川さん
いやいや、そんなに強くないですよ(笑)」

「和子さん
そうですか?ではそういう事にしますか(笑)
そういえば、和子さんは毎週、買ったお酒一人で飲んでるんですか?」

和子の息が一瞬、止まった。
どうしよう。
本当は毎週ヒロカズと二人で飲んでいる。でも、ヒロカズとの関係が理解されるはずもない。

「長谷川さん
たまに友達と飲みますがだいたい一人です。土日二日間かけて一本開ける感じです。」

「和子さん
なんだ、てっきり彼氏さんと飲んでるのかなって思ってました。
一人のお酒も楽しいですよね!結婚してからなかなか縁がないですけど。」

「長谷川さん
彼氏、いませんよ(笑)
ご夫婦でお酒、いいじゃないですか。ひとり酒に慣れてしまうとなかなか想像できません。」

和子の指が震えた。
いくつか嘘をついてしまった。
でも、ヒロカズは彼氏ではない。

「和子さん
お一人でしたか。和子さん魅力的な女性なのに勿体無いですね。
では!またお食事付き合ってくださいね!パフェでもいいです。」

「長谷川さん
魅力、ないですよー。
お食事はいつでも誘ってください。土曜日はそんなわけで、暇なんです。」

また長谷川さんと食事できるのかな。社交辞令かな。
期待感、そして嬉しさと、少しの嘘への後ろめたさが心の中で渦巻いていた。

「和子さん
ありがとうございます!
和子さんと行ってみたいお店、海老名にまだまだ沢山あるんですよ!
またお誘いするんでよろしくお願いします。」

長谷川は意外と本気のようだった。
いいのかな。
和子は反射的に顔をあげて長谷川を見た。
いくつかデスクを挟んだ斜め向かい、いつものように昼休みの消灯で薄暗い中、ディスプレイの光に照らされた長谷川の端正な顔。
片手で焼きそばパンを掴んで食べている。
おっきな手だな。
その手の優しくて温かい感触がよみがえってきた。どうしてだろう、数秒しか触れていないのにはっきり思い出せる。

もっと触れていたかったな。

和子は少しだけ思い、慌てて頭の中で取り消した。
そして、長谷川のその美しい顔立ちに見惚れてしまいそうになり、慌てて視線をそらした。

「長谷川さん
こちらこそよろしくお願いします。
それはそうと、今日は焼きそばパンですか?
長谷川さん、甘くないパンも食べるんですね(^ ^)」

「和子さん
たまに食べたくなるんです、焼きそばパン^^;お恥ずかしい。」

「長谷川さん
わかります(笑)たまに食べると安心しますよね。」

「和子さん
わかりますか!そうですよね!
和子さんは今日もカップヌードルですか。
カワイイ手で器用に箸使ってますね!」

和子の胸がギュッとなった。
また、手を褒められた。
こんな不恰好な手を。
この手をほめてくれる人がいるなんて。

「長谷川さん
いえいえ、大人ですから(笑)
箸くらい普通に使えますよ。
今日のカップヌードルは同じように見えて新製品です。期間限定らしいです。限定って言葉に弱いんですよ、、」

「和子さん
へー、和子さんも限定に弱いんですね。奇遇ですね、自分も弱いです(笑)
駅の改札前で売ってるシュークリームとかドーナツとか、限定って書いてあると迷わず買っちゃったりして^^;」

長谷川さん、駅でシュークリーム買うのか。
思わず和子が顔をあげると、こちらを見ている笑顔の長谷川と目が合った。

かっこいいな、もう。

テーマ : 自作連載小説
ジャンル : 小説・文学

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